パパ覚

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江戸時代の夢 富くじの一等当選金額は?

菅直人首相の伸子夫人が、20年かけてこんなになった日本を、1、2年で首相が変身させるなんて思わないでほしい・・・・ とつぶやいてましたね。


これは、1、2年で効果がでるわけないし、効果が出るまで何年かかるかなんて保証できない。 でも、このままつづけた方がいいですよ。短期でやめると返って損すしますよ。 って意味か?

詐欺師のクレーム対応のようだ・・・ 


そんなせちがない世の中ですが、宝くじさえ当たれば・・・と思うのは今も昔もあまり変わりがなかったようです。


さて、今回はそんな宝くじ(富くじ)のお話。


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富くじは、現在の宝くじのようなものです。


富くじ発祥の年は1575年(天正3年)に始まる「富会」で、場所は大阪府箕面市箕面公園にある本山修験宗(修験道の一派)の寺院、瀧安寺(りゅうあんじ)とされています。


これがブームになったのが江戸時代。


人々は番号の書かれた富札を買い、抽選でその番号が当たれば賞金を手に入れられるという仕組みは今と変わりありません。


江戸時代には、富くじは民間でも行われており、幕府は民間の富くじを厳しく取り締まっていました。


しかし、享保年間(1716~1736年)に、寺社にだけは富くじを扱える許可を与えたのです。


これは幕府からの助成金を打ち切るかわりに、富くじの収益を寺社の修繕などに使わせるという目的があった為です。


そのなかでも谷中の感応寺や湯島天神、目黒不動尊は「江戸の三富」と呼ばれ、たいそうなにぎわいを見せたといいます。


さて、では今回のお話の本題、これほど人々を熱狂させた富くじの賞金は、いったいいくらだったのでしょうか?


もっとも一般的だったのは、一等賞金100両というものです。


現在のお金に換算すると、500万~600万円といったところですね。


二等は一等の半額の50両、三等はまたその半額……と続いていき、100等まで当たることになっていました。


一方、富くじ1枚の値段はというと、およそ500文(現在でいうと一万円ぐらい)でした。


これは庶民にとってはけっこうな高額で、おいそれとは買えません。


そこで、1人50文ずつを出し合って共同で1枚を購入することも多かっようです。


やがて富くじ熱はピートアップしていき、一等賞金が1000両というケースもあったようです。


時代を問わず、庶民はくじに一獲千金の夢を託したんですね。


さて、次回なんですが、今回の記事に1000両という単位がでてきました。


千両といえば、千両箱 千両箱といえば・・・ 越後谷おぬしも悪よのぅ・・・ (ん?ちがう?w


って脳内変換されてしまったので、この越後谷がお代官様に差し上げた お菓子(ワイロ)っていくらぐらい?なんてのはどうでしょう。


ではまた。

江戸時代の「不倫」の和解金をめぐる暗黙のルールとは?


パパ覚


今回のネタは不倫の和解金についてです。


なぜ 今更↑なドラマを見ていたのかについては、触れない方向でお願いしますw


さてさて、不倫がばれたら大騒ぎになるのは、昔も今も同じです。


さしずめ現代なら泥沼の離婚裁判のあげく、高額な慰謝料を支払う羽目になるといったところでしょうか。


そういえば、島田伸介の所は最近、こういうネタの相談をしてないですな・・・


先述の記事にもあるように、江戸時代の倫理は現代よりずっと厳しく、不義密通にはそれはそれは厳しい処罰が待っていました。


姦通した男女はともに死罪。


逢引の現場を押さえた夫は、妻と間男を殺しても罪には問われないというものです。


法律上、浮気が原因の殺人は合法・・・・ あわわわ。


ですが、これはあくまでも法としての建前の話です。


町人たちは切った張ったのおおごとにするよりは、むしろ話し合いで解決することのほうを望みました。


間男は和解金を差し出すことで、命を助けてもらいました。


この和解金の金額には暗黙のルールがあったようです。


初期には 5両 だったともいわれていますがが、広く知られているのは 7両2分 です。 


この7両2分という微妙に半端な金額に決まった理由には諸説あります。


そのひとつがた岡忠相が姦通の謝罪金を大判1枚と決めたからというものです。


本来、大判1枚といえば 10両 の価値があったものの、実際には当時の大判には 7両2分 に相当する純金しか使われていなかった為、この金額が定着したというものです。


とはいえ、7両2分 でも簡単に出せる金額でありません。


不倫の代償はいつの時代でも高くつくということですね。


さて、次回は、またテレビを見ていてで恐縮なんですが、香取慎吾さんはどーしてあんなにロトに当たるんでしょう・・・ うらやましぃ・・・


桃太郎電鉄なんかでも、知ってる人も多いと思う 「 富くじ 」。


一等の当選金額は? なんてのはどうでしょうかね。


では、また。

江戸時代のお医者さんに支払う「診察料」の相場は?

朝起きるのがつらい、寒い日が続いていますが皆様いかがお過ごしでしょうか?


一度、「ラクダ」 に手を出すともう・・・・ 手放せません。


さて、今回は医療費の話です。


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健康保険なんてものがない時代は、自己負担10割が当然。


では、実際に医者にかかったときに支払う「診察料」ってのはどれぐらいだったんでしょうか?


江戸時代には、「医は仁術」という考え方があり、無償で患者を診察する赤ひげのような医者もいたようで人気のドラマのような医者は実在していました。 


しかし、医者も生活費は必要だし、診てもらった患者にも感謝の気持ちがあります。


そこで、「薬礼」という名の診察料を払うのが通例でした。


現在のように流通が発達した時代ではなかった時代です。


医者に支払う薬礼はけっして安いものではありませんでした。


医者には幕府に仕える 御典医、藩に仕える 藩医、そして 町医者などの種類がありました。


一般の町人であっても、お金さえ払えば御典医に診てもらうこともできましたが、御典医に往診を頼むと、1回の診察で4両もの大金が必要だったそうです。


しかも、御典医ともなれば何人かのお供を連れて来ます。


薬礼のほか、こうした供回りへの謝礼も支払わなければならなかったのです。


実際、町医者クラスでも1分~2分の薬礼が相場だったようです。


これは、現代のお金に換算すると、もおおよそ1万~2万円です。


また、遠くの医者に往診を頼めば、ここに駕寵代も 上乗せとなってきます。


しかも薬代は別料金で、3日分で1分、1週間分で2分か相場だっようです。


4分か1両に相当しますので、1回の診察と薬の処方で1両が飛んでいってしまうことも珍しくなかったようです。


では、こんな高額な薬礼など払えない庶民は、どうしていたのでしょうか。


彼らが頼ったのは、鍼灸治療やもみ療治、薬売りなどでした。


必殺シリーズ 念仏の鉄の表稼業みたいなやつですね。


また、薬売りといえば、室町時代の富山を想像しますが、江戸時代には委託事業の様相もあったようです。


薬の種類も結構豊富で、膏薬、せき薬、頭痛薬などさまざまな薬があり、価格もせいぜい16文~数十文程度だったようです。


さて、次回なんですが、先程見ていたドラマが不倫ネタだったので、江戸時代の「不倫」の和解金をめぐる暗黙のルールについてでも。


ではまた♪

江戸時代に吉原で遊ぶのに必要な予算は?

先日まで任天堂の3DSのうわさでもちきりだったのに、27日にSONYがNGPを発表した途端一気に話題がそちらへ・・・・


個人が携帯端末を持ち歩く時代は、もうすぐそこに来ていそうです。


さてさて、今回はちょいと大人のネタでも。


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江戸遊びの代名詞のひとつに幕府公認の遊郭「吉原」というのがありました。


先日サムライチャンプルというアニメを見たらそのシーンがあったのでネタにしてみたんですけどねw


そこには、特殊なお金のしきたリがありました。


現在知られている吉原といえば、「明暦の大火」の後に、浅草寺から1キロほど裏手に移転した新吉原のことです。


吉原ってなに? と、思っても決してパパに聞いちゃいけないぞ!(マテ


さて、私娼を相手にする岡場所は江戸にいくつもあったようですが、吉原はそれらとは別格で、唯一、幕府が公認した遊廓でした。


その吉原で、吉原らしい華やかな遊びを楽しみたいなら、大枚をはたかなければならない超高級な遊び場だったのです。


まず、吉原に向かう際に猪牙船や駕寵を使えば、それだけで200文や300文は飛んでしまいます。


なけなしの金をはたいて遊びに行く庶民は、もちろん徒歩・・・・。


郭に上かってからは遊女の格によって料金が異なりますが、たとえば花魁などの高級遊女を呼んだ場合だと、最上級の花魁の場合で、座敷に呼ぶ揚代だけで1両1分かかったようです。


さらに、花魁が座敷に来るまでには1~2時間待たされることも珍しくなく、その間、酒や料理を食べ、幇間や芸者衆の芸で間を持たせるのが通例でした。


当然のことながら、これは別料金です。


そして、ようやく花魁が登場しても、初回から床入りはできないのです。


最初は遠く離れて座り、お客の顔を見てくれることさえないといいます。


3回めでやっと馴染み客として認めてもらえますが、馴染金と称した祝儀をごっそりと持っていかれます。


苦労して何回も通っても、花魁に気に入ってもらえなければ振られしまい、すべてが水の泡なんだそうです。


一方、念願かなって床入りができた場合には、別途5両~10両もの祝儀を払います。


化政期の金額で 換算すると、これは約40万~80万円もの大金に相当します。


かなりの財力をもつお大尽様でもなければ、吉原で上級の遊女を相手にすることはできなかったということですね。


昔の方が安いイメージがあったんですが、まったく逆でかなりの費用がかかったようです。


さて、次回は・・・・


私も含め、花粉シーズン到来で、事前にお医者さんに行く方が増えているそうです。


そこで、健康保険なんて制度がなかった江戸時代、お医者さんに支払った「診察料」の相場は? でお会いしましょう。


ではでは♪

江戸時代の長屋の家賃っていくらぐらい?

明日は、ガンツの公開日ですね。 ちょっと見に行きたい気分です。


さて、前回は庶民の生活水準を知るうえで、一番のウエイトを占めると思われる家賃。


これをネタにしてみます。


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おかみさん達が洗濯をしながら井戸端会議をし、子どもが元気に露地を走り回る……。


これは時代劇でおなじみの江戸時代の長屋の風景です。


私が子供のころは、まだ川で洗濯をする習慣が残っている場所もありましたが、今は全く見なくなりました。


江戸ではI軒の広さが間口9尺(約2・7メートル)、奥行き2間(約3・6メートル)という棟割長屋が一般的だったようです。


このうち1畳半くらいが土間で、部屋は四畳半ひと間。


風呂はなく、井戸と厠は共同で、レオパレスもびっくりなぐらい壁は薄く、隣の住人のいびきで眠れないなんてこともあったようです。


現代の水準でみれば、ずいぷんと貧しい暮らしに見えますが、文政年間では町人の約7割が借家人で、その大半が長屋に住んでいたそうです。


もちろん長屋の中には、二階建てで小さな庭がついているものもあったとはいえ、そんなところに住めるのは大工や左官の棟梁など、ある程度収入のある者だけでした。


一般庶民にとっては棟割長屋がふつうの住まいでした。


ところで、こうした長屋には、野菜や魚を担ぎ売りする棒手振や大工などの職人、仕立屋、小さな店の商人など、さまざまな職業の人が住んでいました。


場所によって多少の違いはありますが、家賃はだいたい月400~500文くらいだったようです。


ちなみにヽ大工の1日の収入が500文前後、棒手振なら100~200文程度の稼ぎだったといいますので、ゆとりはなくとも生活に困るほどの家賃ではなかったと思われます。


それに、今でいう税金に当たる公役を納めていたのは地主で、長屋暮らしの借家人は税金を支払う必要がありませんでした。


つまり、自分たちの生活費だけを稼げばよかったというわけですね。


そのかわり、町政には参加できませんでした。


地主や、持ち家があり公役を払っている者だけが町政に参加できる町人として認められていたため、実際には大半の庶民が”正式な”町人として認められていなかったというわけですね。


さて、次回はちょっと大人な話でも。


幕府公認の遊郭「吉原」のお金のしきたリについて。


ではまた♪

江戸時代の旅にはどれぐらいの費用がかかったのか?

テレビをみていると 湯快リゾートが今人気みたいですね。


あぁ、温泉いきたい・・・・


さて、今回は旅行がテーマです。


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江戸時代の文芸で有名なものの一つに、弥次さん・喜多さんが珍道中を繰り広げる「東海道中膝栗毛」というのがあります。


この2人は物語の登場人物なんですが、この本が出版された頃から一般庶民の間でも旅を楽しむ人々が増えてきたようです。


彼らの目的は寺社への参拝だとはいえ、知らない土地の珍しい風物に触れることができるため物見遊山も兼ねていました。


なかでも、とりわけ人気が高かったのが「お伊勢参り」で、本の通り弥次さん・喜多さんと同じ東海道を行くコースだったようです。


ところで この東海道の旅なんですが、一日の路銀(旅費)はいったいいくらぐらい必要だったのでしょうか。


道中で一番大きな割合を占めていたのは、宿代です。


一泊2食つきの旅籠だと、平均で150~200文ぐらいの料金が相場だったようです。


もちろん一日に払うのは宿代だけというわけにはいきません。


旅籠によっては出立する日に弁当を持たせてくれるところもあったようで、それがなければ昼食代が必要でしょうし、途中で休憩すれば茶代もかかります。


移動手段は基本的に徒歩ですから、途中でわらじも買い替えなければならないないでしょう。


また、今では少なくなったかもしれませんが、宿に泊まれば多少の心づけ(おひねり)を支払うこともあります。


こうした諸々の雑費までを含めると一日に400~600文程度が必要だったそうです。


現代のお金に換算すれば、およそ 8000~1万5000円ぐらいですね。


ところで、これは平旅籠と呼ばれる普通の宿屋に泊った場合の話。


昔の宿には、下働きをしながら夜のお相手もしてくれる女性を抱えている、いわゆる飯盛旅籠というのがあり、女性を呼んだ料金は別に支払うことになっていました。


前回から何度か「庶民」というキーワードがでていますのでこのあたりを次回のテーマにと思います。

時代劇でよく見る庶民といえば・・・・ と、いうことで。


次回は、江戸時代の長屋の家賃っていくらぐらい? で。


では、また♪



追記) 東海道中膝栗毛 作者:十返舎一九(じっぺんしゃいっく)

滑稽本(江戸時代後期の笑いを主眼とした小説ジャンル)。

享和二(一八〇二)年から文政五(一八二二)年にかけて刊行。

別名『道中膝栗毛』。

弥次郎兵衛、喜多八の二人連れが、失敗を繰り返しながら東海道を上り、伊勢神宮参拝を果たして、京都、大坂に到る道中記。

続編では四国、中国に渡り、善光寺を経て江戸へ帰り着く。

歌舞伎の入場料はいくらぐらい?

今年の花粉は、昨年の10倍以上だそうですね・・・ あぁ イヤダ イヤダ・・・


さて、前回に引き続き歴史のお話。


今回は、


■ 江戸時代の華 歌舞伎の入場料っていくらぐらいだったの?


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歌舞伎は日本を代表する古典芸能のひとつですが、江戸の人にとって歌舞伎の華と言われる程で、最高の娯楽であり最大の関心事だった ようです。


18世紀の半ばごろから盛んになったこの古典芸能を最初に興業したのは 中村座。


そういえば、もう左目は大丈夫なんでしょうかねぇ。 海老・・・ げふぉげふぉ・・・


さてと・・・ これを皮切りにありこちに芝居小屋が建てられましたが、先記事にもあった、1841年(天保12年)水野忠邦の改革により、芝居小屋は浅草近くの猿若町に集められました。


そして、武家や豪商から庶民までもが熱狂する娯楽と発展していきます。


当時の興業は朝6時頃から夕方4時頃まで。


少しでもいい席を確保したい庶民は、まだ夜も明け切らないうちから小屋の前に並んだといいます。


庶民が座るのは平土間(ヒラドマ)と呼ばれる一番安い枡席でした。


ひと枡の中にはだいたい7人ぐらいが定員でしたがお客が多いとそれ以上に詰め込まれることもありました。


出し物や出演者、あるいは時代によって見物料は異なるものの、現在の金額にして、およそ数千円といったところが相場だったようです。


ちなみに、現在では昼の部で一万から一万五千円ぐらいが相場と思われます。


一方、懐に余裕がある商人などは、チケットの手配をしている芝居茶屋へと向かいます。


そこで観劇用のよそいきに着替え、一番高い桟敷席へと案内されます。


ここは、今の価格にすると10万円以上する席です。


芝居茶屋は菓子や弁当を用意するなど、幕間には休憩所となり、芝居のあとには一席設ける場所として賑わいました。


このときに、ひいきの役者を座敷に招くこともできたそうです。


芝居茶屋を利用する人々は、見物料に加えて、飲食代まで奮発していたようですね。


桟敷席とは比べ物にならない金額だったとはいえ、庶民にとっては平土間でも決して安い料金ではありませんでした。


何カ月もお金を貯めて見に行く人もいましたが、実はその日暮らしの庶民でも手軽に歌舞伎見物を楽しめる席がありました。


それは、2階席の奥あたりにあった立ち見席です。


ここは、現在のお金で数百円程度だった為、芝居好きは毎日でも通うことができたようです。


相撲も同じような体系ですね。


さて、次回は 江戸神田八丁堀の住人栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ)と、居候の喜多八(きたはち)の珍道中、東海道中膝栗毛でも有名な旅が流行したのも江戸時代なので、これにはどれぐらいの費用がかかったのか? でお会いしましょう♪

ただいま♪

心の友 黒ひげさんから らぶレターをいただきましてw 


こそーり復活してみたりします。


いやいや、お友達ってのはいいですね。


なんの記事を書いていこうかなと検索キーワードを見てみると 「歴史」ってのが上位にいましたので、しばらくこのキーワードのネタでも♪


さて、一回目は・・・と


■ 江戸時代に「江戸前寿司」はいくらで食べることができたのか?


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「江戸前寿司」といえばちょっと贅沢な気分を味わる事のできる食べ物として人気ですね。


登場したのは江戸時代の文政年間(1818~1830年)頃といわれています。


にぎり寿司の文化は江戸時代が発祥ですが、江戸前寿司とは、江戸城の前に広がる海で取れた魚をネタとして使った寿司全般をさす言葉です。


贅沢とは縁のなかった江戸時代の庶民にとっても、この江戸前寿司は、手軽でありながらも贅沢を感じられる食事だったようで、今と変わりなく愛されていたようですね。


寿司のネタとしては、アジ、タイ、コハダ、アナゴ、玉子など今とほとんど同じメニューだったようです。


当時は、光りものが人気で、マグロはあまり食べられなかったようです。 


また、今と違って普通の店舗だけでなく、屋台の立ち食いスタイルの寿司屋さんも多かったようです。


さて、その江戸前寿司の値段なんですが、本来は1カンでおよそ4文から60文と結構幅がありました。

(1文は現在の20~25円程度)


しかし、時の老中・水野忠邦の「天保の改革」によって「贅沢はけしからん!」と、取り締まりの対象となってしまいました。


その結果、もっとも高いものでも8文程度と決められました。


ですが、その後 時代もかわり締め付けが緩んでくると、再び20文以上の寿司も出てくるようになりました。


寿司はどの店で食べるかによって値段に違いがあり、それなりの店で食べれば20~30文ですが、屋台で食べると10文以下という感じだったようです。


江戸時代は全国のモノの流通が整備され、ある地方の特産物などが全国に広がるのにさほど時間のかからない時代だった為、江戸前寿司も例外なく文政年間末期には大阪、天保年間になると名古屋にも広がっていきました。


次回は、江戸時代のちょっと贅沢つながりで 江戸の歌舞伎の入場料はいくらぐらい? 


では♪


秋の明日香村を散策

朝夕がだいぶ涼しくなってきました。


ハイキングには、とてもよい季節です。


先日TVで奈良県の替え歌ってのがやっていたらしく、娘さんのご要望で 石舞台 & 亀石 を見に行くことになりました。


当日は、非常に天気がよかったので レンタル自転車を借りてサイクリングをすることにしました。


駐車場すぐそばのレストハウスに・・・・ ん? 古代米ソフトクリーム!?


ママは、まだ気が付いていないな・・・・ うひ


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古代米(飛鳥時代の赤色のお米)で出来たソフトクリームで、甘すぎず うまぁ~♪ なわけでした。


パパ覚  パパ覚


自転車を借りて、いざ!


棚田にはたくさんの彼岸花が咲いており、とてもきれいでした。


パパ覚  パパ覚

案山子(かかし)ロードというのがあって、かかしコンテストが開催されていました。


遷都1300年祭開催中というのもあってか、巨大せんとくん案山子なんかもありました。


家でゴロゴロも捨てがたいですが、やはり外で体を動かすのは楽しいですね。


一日で、すごく日焼けしましたけどねw


ちなみに、もう一つの目的であった 亀石

パパ覚

嫁様いわく、シンガポールのマーライオンぐらい がっかりした・・・ とのこと。


まぁ、石舞台を見た後だったので、、ふつーの石に見えちゃいましたかねぇ・・・・

たばこ 値上げしたみたいですね

兼ねてから、愛煙家の皆さんにとっては非常につらい値上げが、とうとう施行されたようです。


近くのタバコ屋さんに価格表が貼ってあったので、とりあえず資料として。


パパ覚

友人いわく、1,000円で3箱買えていたのが、2箱になるというのは、実感として結構つらいそうです。


パパ覚

私の方は、どうやら完全に禁煙に成功たかな?と思える程、まったくタバコに興味がなくなりました。


これから、禁煙しないといけないなと思ってらっしゃる方は、ダレン氏作の「禁煙セラピー」は読んでおいたほうがいいですよ。


成功する & しない は、別にしても、何らかの良い方向への影響は受けると思います。


なぜ、禁煙がうまくいかないのか?


今、思うと 一番の要因は、 「 自分に逃げ道を作って 安心しようとする事 」 だと思います。


そして、逃げ道を作っていること人には隠したがるようです。


どんなに良い言い訳を思いついても、自分自身(自分の体)を騙すことはできませんよ。

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