江戸時代の長屋の家賃っていくらぐらい?
明日は、ガンツの公開日ですね。 ちょっと見に行きたい気分です。
さて、前回は庶民の生活水準を知るうえで、一番のウエイトを占めると思われる家賃。
これをネタにしてみます。
おかみさん達が洗濯をしながら井戸端会議をし、子どもが元気に露地を走り回る……。
これは時代劇でおなじみの江戸時代の長屋の風景です。
私が子供のころは、まだ川で洗濯をする習慣が残っている場所もありましたが、今は全く見なくなりました。
江戸ではI軒の広さが間口9尺(約2・7メートル)、奥行き2間(約3・6メートル)という棟割長屋が一般的だったようです。
このうち1畳半くらいが土間で、部屋は四畳半ひと間。
風呂はなく、井戸と厠は共同で、レオパレスもびっくりなぐらい壁は薄く、隣の住人のいびきで眠れないなんてこともあったようです。
現代の水準でみれば、ずいぷんと貧しい暮らしに見えますが、文政年間では町人の約7割が借家人で、その大半が長屋に住んでいたそうです。
もちろん長屋の中には、二階建てで小さな庭がついているものもあったとはいえ、そんなところに住めるのは大工や左官の棟梁など、ある程度収入のある者だけでした。
一般庶民にとっては棟割長屋がふつうの住まいでした。
ところで、こうした長屋には、野菜や魚を担ぎ売りする棒手振や大工などの職人、仕立屋、小さな店の商人など、さまざまな職業の人が住んでいました。
場所によって多少の違いはありますが、家賃はだいたい月400~500文くらいだったようです。
ちなみにヽ大工の1日の収入が500文前後、棒手振なら100~200文程度の稼ぎだったといいますので、ゆとりはなくとも生活に困るほどの家賃ではなかったと思われます。
それに、今でいう税金に当たる公役を納めていたのは地主で、長屋暮らしの借家人は税金を支払う必要がありませんでした。
つまり、自分たちの生活費だけを稼げばよかったというわけですね。
そのかわり、町政には参加できませんでした。
地主や、持ち家があり公役を払っている者だけが町政に参加できる町人として認められていたため、実際には大半の庶民が”正式な”町人として認められていなかったというわけですね。
さて、次回はちょっと大人な話でも。
幕府公認の遊郭「吉原」のお金のしきたリについて。
ではまた♪